「急に引っ越しをすることになったので、今日で最後なんです…」と、90才になるSさんが深くお辞儀をされました。
この薬がないとやっていけないのですが、これからどうしたらいいでしょうかと不安げな様子です。
『この薬』とはリン酸コデイン。麻薬系の鎮痛薬です。
Sさんは、2年半前に88才でうちにみえました。
第4腰椎のすべり症があり、そのために脊柱管狭窄をきたし、2分歩くと足が痛くなって歩けなくなる、10分立っていると足が痛くなるという症状で日常生活がずいぶん不自由になっていました。
Sさんは、心筋梗塞をおこしたことがあるので、再発予防のためにバイアスピリンを服用中でした。バイアスピリンをのんでいる時は、血腫の合併症のリスクが高くなるので、硬膜外ブロックはせずに、坐骨神経ブロック、トリガーポイント注射、低周波治療器による治療を開始しました。
この程度の治療でも、1週間は楽にすごせるようになりました。まぁまぁ楽にはすごせるが、完全に痛みがとれるわけではない、そして日がたつにつれて、また痛くなる、という状態でした。
年齢や、腰椎のすべり症があること、治療内容から考えると、治療者側からみると、とてもうまくいっているほうなのです。
しかし、だんだん週に一回の治療のために来院することが大変になり、治療間隔が2週間、3週間になると、痛みの強い時間が長くなっていきました。それで、来院できない間の痛みをとるために、リン酸コデインを使うことにしました。
1日1錠から徐々にふやして、1日6錠120mgを3回にわけて服用するまで増やしたところで、痛みがある程度コントロールできるようになりました。
麻薬は吐き気や便秘の副作用がかなり高率にでます。服用する量が増えると、副作用も強くなります。
しかし、吐き気は、最初の2週間程度で、ほとんど感じなくなることが多いので、細心の注意をはらって時間をかけて服用する量を増やしていきます。リン酸コデインを少しずつ増やすことで、便秘の対応にも慣れてきて、便秘薬の調節が上手になってきます。そのようにして、Sさんの場合は、3ヵ月ほどで、満足のいく量まで増量することができました。
その後は、坐骨神経ブロックと低周波治療は、痛みの強いときに追加してするだけで、治療は薬物療法が主となり、神経ブロックは従になりました。こうして医療用の麻薬を飲み始めることで、Sさんの生活レベルは大きく改善されました。
今回引っ越しをすることになり、この薬をどこかで処方してもらえるでしょうかと、心配なのです。
これまでの治療経過を書いた紹介状を、新しい住所に送ることとを約束して、「じゃ、お気を付けて。大事にしてくださいね」と診察の終わりの挨拶をしました。
ところが、Sさんは、立ち上がる様子がありません。
「受付で処方箋お渡ししますからね。はい、どうぞ。おだいじに」ともう一度挨拶をしました。
しばらく沈黙した後に「先生、ほんとにお世話になりました」と深々と頭を下げて、手を差し出されました。
ハッとして「今日で終わりですものね・・・」とその手を握って、Sさんの顔をみると、涙が流れていました……
両手で手を握ったまま、わたしも涙ぐんでしまいました。
あたらしい土地でも、そこの病院の医師やスタッフといい関係がもてるといいなぁと心の中で祈りました。